Index

第1話 草加物語

第2話 思い出話

第3話 人生という名の競馬場

第4話 Winny製作者逮捕(怒)

第5話 史上最低の釣り

第6話 ハワイアン韓国へ行く その1

第7話 ハワイアン韓国へ行く その2

第8話 ハワイアン韓国へ行く その3

第9話 ハワイアン韓国へ行く その4

第10話 ハワイアン韓国へ行く その5

第11話 ハワイアン韓国へ行く その6

第12話 ハワイアン韓国へ行く その7

第13話 ハワイアン韓国へ行く その8

第14話 私の愛した音楽達 その1

第15話 私の愛した音楽達 その2

第16話 私の愛した音楽達 打ち切り編


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第16話 私の愛した音楽達 打ち切り編

じっくりと構想を練った上にこの連載を開始してはみたものの、全く筆が進まない。
いざ書きはじめると意外と書くことが無いし、面白くない。
何故だ。
幼少時の記憶は曖昧で細かな記述が出来ず、話が膨らまない。さらにそれほど音楽に没頭していた訳ではないのでさほどネタが無い。
ダメじゃん。何がじっくり構想だよな。
という事でこのネタは今回で打ち切ることにします。・・・ってそれじゃあんまりにも尻切れトンボが過ぎるのでその後の人生を駆け足で綴ろうと思います。

小学校3年生の時に松田聖子がデビューしアイドル全盛の時代が始まる訳だが、毛も生えていないくせにすでに硬派を気取っていた僕はフリフリのアイドルには見向きもせず、横浜銀蝿やアラジンを応援していた。この頃すでに僕のハートはエイトビートを刻んでいたのだ。
彼等(つーか銀蝿だな。アラジンは一発屋だし)の衰退と共にチャートへの興味も薄れ、チェッカーズに大騒ぎする女共を冷ややかに横目で見つつ中学へ。
遣り場のない年頃になり、捌け口を音楽に求めるようになる。渡辺美里の今思えば若年寄のような青春ソングや性欲むき出しのサザンなんかを聴きながらも何か物足りない。相変わらず女性アイドルには全く興味が沸かず、学芸会のような おニャン子クラブだの光GENJIだのに苦虫を噛みつぶし、そしてアルフィーと出会った。
兄が友達から借りてきた東京ベイエリア10万人コンサートのビデオ。高見沢俊彦のかき鳴らすピンク色のランディー・ローズモデルに、黒光りする1958年式レスポール・カスタムに、真っ赤なESPタカミザワ・カスタムにシビレまくった僕はギタリストを志すようになった。そしてアルフィーを通じてレッド・ツェッペリンを、ディープ・パープルを知ったのである。
高校入学のお祝いにギターを買ってもらい「スモーク・オン・ザ・ウォーター」なんかをコピーつつ、田舎の貧相なレンタル屋で数少ないハードロックのレコードを漁る日々。バンドをやりたいと思うも世にはボウイの流れを汲むチャラチャラと軽いパンクの出来損ないのうようなクソ音楽がはびこり、僕の熱きロック魂はほとんど理解してもらえない。ボン・ジョヴィがいくら売れようが毛の長い奴がやる音楽は騒音、みたいな偏見タップリだったのは田舎だったからなのか否か。
高校1年生の春にはじめてライヴを経験したのだが、これが何とオジー・オズボーン。連れも無くひとり寂しく電車に乗りはるばる大阪へ。フェスティバルホールで観たものはすべてが初体験。鼓膜が破れそうな爆音、一心不乱に首を振る客席の熱気、オジーの生白い尻(笑)。音楽でハジける楽しさを知った。
だが日常に戻れば所詮マイノリティ。数少ない気の合う仲間とテープの貸し借りをしたり、バンド組んでみては失敗したりと煮え切らない日々。結局高校3年間でまともなバンド活動は出来ず、大してギターも上達しないまま熱は冷めていくのであった。
高3の2学期からすこし真面目に勉強したら埼玉のある大学に合格することが出来た。東京や神奈川だと自宅から通えてしまう可能性があるのでわざわざ少し辺鄙な場所にある学校を選んで受験したのだ。
アパートを借りて一人暮らしを始めた。ラジカセ・CD・カセットは持ってきたが、ギターは実家に置きっぱなし。どうせ上手くならないしバンドも出来ないからもうやめようと思っていた。
そう、入学式の翌日までは。
(了)



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第15話 私の愛した音楽達 その2

幼少時代の音楽経験を語る上でドリフターズは欠かせない存在だ。
ただ、僕はバンドとしてのドリフターズについては全く知らないし、沢山のレコードをリリースしていた事も当時は全く知らなかった。
あくまでも面白い事をする集団、という認識だったのだが、東村山音頭やヒゲダンスは大好きだった。
TVのスピーカーにマイクを近付けて声を潜め、一生懸命カセットに録音したものだ。そしてそういう時に限って親父が早く帰って来るのだ。人生とはそういうものだ。

それはさておき。僕が大好きなドリフソングは上記の2曲とは別にあって、それは「ゴー・ウエスト」だ。
そう、ニンニキニキニキでおなじみのアレ。全員集合じゃなくって人形劇の主題歌・・・のつもりだったんだけど調べてみたら違った。主題歌はピンクレディが歌ってたらしい。全然覚えていない。
さらに番組名は「飛べ!孫悟空」だった。まぁそんな事はどうでもいい。この曲の「頭から離れない度」は、同時期に大流行した「ジンギスカン」と肩を並べるであろうと思う。
ウエストだからウエスタン調アレンジってのもバカっぽくていい。

随分大きくなってから(大学も出てから)、無性にこの曲が聴きたくなりドリフのベスト盤を購入した。ゴー・ウエストはやっぱり最高だったが、それ以外の曲がまた素晴らしい。ファンキーかつプログレッシブ。
色物と呼ぶには惜しすぎるクォリティの高さだ。
話は少々それてしまうが、このベスト盤にピンポンパン体操のカヴァー(?)が収録されている。
ピンポンパン体操なんてすっかり忘れてしまっていたのだが、これはプログレだ。
曲も歌詞もシュール過ぎるぜ。教育上いいとはとても思えん。

・・・人形劇もっかい観たいなぁ・・・全員集合よりこっちをDVDで発売して欲しいな。


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第14話 私の愛した音楽達 その1

僕の誕生日は1972年7月17日。
誰かの命日に生まれたとか、誰かと同じ日に生まれたとかそんな面白いエピソードがあれば面白いのだが、残念ながら僕は有名ミュージシャンの生まれ変わりではないようだ。当たり前か。「誕生日」だけで見ると丹波哲郎だの青島幸男だのイモ欽トリオの長江健次だのいるんだが。石原裕次郎の命日も7月17日だ。

いきなり話がそれてしまいそうだ。
・・・当時は ブリティッシュ・ハードロック華やかなりし頃だが、乳呑み児にとってそんな事は全く関係ない。中にはツェッペリン聴かされていた赤ちゃんもいるだろうが僕の両親に限って言えばそれは100%あり得ない。
生まれた頃、いやそれどころか生まれる前に母親の胎内で聴いていた音楽だってちゃんと記憶の中に残っている筈で、その後の人生に影響を与えているものだと僕は思っているのだが、僕が聴いていたのはおそらく母親の好きなクラシック音楽であろう。ショパンのワルツなんか聴きながらミルク飲んでいたんじゃなかろうかと。ちなみに父親はまったく音楽には興味の無い人間である。

覚えていない、いや思い出せない話を延々としても仕方ない。覚えていることを書こう。
僕の母には年の離れた弟がいるのだが、小さな頃は新丸子にある母の実家でよく遊んでもらった。何歳の頃かまで覚えていないが、いつもは入れてくれない部屋に一度だけ入れてもらった事がある。部屋のイメージとかそこで何をしたかとか全く覚えていないのに、そこで聴いた音楽だけは覚えている。 子ども心にはとても陰鬱で悲しげで、どこか奇妙なメロディーだった。これが頭に焼き付いて離れなくなり、その晩はなかなか寝付けなかったことまではっきりと記憶に残っている。
その曲は ビートルズの「イエスタディ」なのだが、子どもに聴かせるような曲じゃないだろうよ・・・なんて思いつつも、そんなに強烈なインパクトを鼻垂らしたガキにも与えるビートルズはやっぱり偉大だ!!・・・っていうのもちょっと違うな。別に感動して涙したとかじゃなくって気味悪くって眠れなかったって話だからねぇ。

自分の息子を見ていると分かるが、子どもってのは調子のいい音楽が好きなんだと思う。中にはそうじゃない子もいるんだろうが、少なくとも自分自身もそうだった。なにしろ「イエスタディ」と並んで幼少時音楽メモリーに収められているのは「ホネホネロック」だからね。
これはもう、テレビの前で踊り狂ってたね。この頃からロックが好きだったんだよなやっぱり俺様は生まれながらのロックンローラー、俺のハートはエイトビートを刻んでるぜ!なんて寝言を抜かしつつも、果たしてホネホネロックはロックなのか、という疑問も湧き上がって来たりする。
そうとなれば入手して聴いてみるのが一番・・・と検索。「ポンキッキスーパーベスト」なる企画物に収められている模様。そして知ってしまった驚愕の事実。歌:子門真人だとぉぉ?!「たいやき君」じゃねぇか!!

聴かなくてもいいや。ロック認定。




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第13話 ハワイアン韓国へ行く その8

四日目。二日酔いの体と頭に激辛カップラーメンで活を入れ、ソウル荘旅館を後にする。
ソウルからはバスで来たが、戻りも同じでは芸が無いので鉄道を利用する事にする。ちょっと奮発して夢の超特急・セマゥル号の切符を買い、日本の新幹線よりも少し贅沢なシートに身を沈める。
ちょっとリッチな気分になった勢いで車内販売の駅弁を買ってみる。高い。日本円で2000円近くしたような記憶がある。車内で詰めているようでホカホカだが、中身はありきたりの幕の内弁当といった風情。しかも百合根の酢漬けのような謎の食べ物が丸ごと入っているのには閉口した。
ソウルに直行はせず、天安(チョナン)という駅で下車する。ここには「独立記念館」という大日本帝国の蛮行を忘れるな!的テーマの博物館があるのだ。日本軍が朝鮮人を拷問したり処刑したりする様子がリアルな蝋人形で再現(??)されており、国を挙げて反日感情を煽っている様子が垣間見られる。 当然韓国人観光客もおり、こちらが日本人だとバレたら凍りつくような視線を投げかけられること請け合いだが、ほとんど客も無くそんな楽しい体験は出来ずじまいであった。
それどころか帰りのバスがどれだか分からず途方に暮れている僕等を助けてくれたのは韓国人観光客のオバチャン達だった。来るバスに行き先を聞いてくれ、お菓子やパンまでおすそ分けしてくれた。庶民レベルでは反日感情など無いに等しいのではないか。
無事駅に戻り、こんどはボロボロの急行トンイル号でソウルへ。適当に入った宿がラブホテルだったりと相変わらずの珍道中ながら無事最後の宿を決め、最後の晩餐を摂りに夜の街へ。

犬はともかく大体食べたいものは食べてしまい特に希望もないので、上野の聚楽みたいな風情のお好みレストランに入る。豆腐チゲだのジャンクッパだの今となっては日本のどこでも食べられるようなメジャー韓国料理に舌鼓を打ちつつ、S武が辛くないカルビスープに「何だよコレ辛くねぇよ!」とコチュジャンを入れている。辛い物嫌いを4日で直す。恐るべし韓国。
最終日。土産を買う金も無く、飛行機に揺られ日本へ。アガシと写真は撮れなかったが、それを補って余りあるほどハプニングに満ちたグレイトジャーニーであった。

無事成田に到着。電車を乗り継いで我がホームタウン・新田駅に着いた時に僕の財布の中には170円しか残されていなかった。 煙草も買えないじゃん。(了)




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第12話 ハワイアン韓国へ行く その7

結論から言ってしまうと、我々の心配は全くの杞憂に終わった。彼らは日本人相手に商売して大儲けしたクチで、日本人(特に婦女子)は大好きなんだそうだ。
儒教思想ではメシも酒も煙草も目上の人間よりも先に手を付けては絶対にいけないとものの本にあったので最初はかなり緊張していたのだが、そうカタくもないようだ。まぁ彼等がうるさくないだけだったのかもしれないが。
反日感情・日本人の戦争責任についても聞いてみたが、「それはあなた方の先輩がした事で、あなた方は関係ない」というお返事。
お互いの身の上話を少々した後は女の話ばかり。「福岡の女の人サイコーですねぇ〜」なんて与太話に大爆笑しつつ酒も進み、大して強くない僕は気付いた頃には立ち上がれないほどに泥酔してしまっていた。張氏はしきりと「キミは膀胱が弱いんだね」と言っていたが、酒の強さと膀胱の強さが比例するものなのか否かは未だに結論が出ない。
ヘロヘロになった僕を皆が心配してくれ、店を出る。夜風に当たって少し回復したところで、「もう1軒行きましょう!」と来たもんだ。旅の恥は掻き捨て、もうどうにでもなれと新たな店の扉をくぐる。着席するとやはりこみ上げて来るものがあり、なだれ込むようにトイレへ。 しかし、先客がいるようだ。10年の月日を経ても忘れる事のできない極上のデスメタル調サウンドを個室内で響かせている。しかも、なかなか終わらない。見栄も外聞も無く汚い便所の床で体をよじらせているとようやくデスメタルライヴは終了し、個室は開放された(以降詳細略)。
胃腸の内容物をリセットしかなり回復した僕はようやく戦列に復帰したのだが、ここでどんな話をしたのかはほとんど覚えていない。ただ1つ覚えているのは、ここで取ったつまみは「フルーツ盛り合わせ」だったという事だ。フルーツ盛り合わせでビールは飲めねぇよなぁ・・・と思った記憶がある。
日付が変わった頃、ようやく店を出る。全員千鳥足で地下鉄の駅に行くが、もう電車は終了。僕等の宿はすぐそばだからいいが、彼等の家はどこなんだろうか。タクシーで帰るから大丈夫!なんて言っているが果たして無事家に辿り着けるのだろうか。
そんな心配をしていると張氏がおもむろに名刺を差し出し、こう言った。
「多分明日になったら今日の事は覚えてないだろう。でもまた韓国に来る事があったらここに電話しなさい。また一緒に飲みましょう」
この名刺はO内が持っている筈である。捨てたとか無くしたとか言ったらただじゃおかんぞ。

宿に戻りしばらくすると、なんと張氏から電話がかかってきた。膀胱の弱い彼は大丈夫かね?との事だ・・・


あれから10年、僕の膀胱はすっかり強くなりましたよ張さん。




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第11話 ハワイアン韓国へ行く その6

韓定食とは、李氏朝鮮時代の宮廷料理の流れを汲んだ言ってみればフルコースのような物である。日本語を全く解さないアジュマが何やらまくし立てるが、当然こちらは理解できない。我々が日本人であることを了解したのか、アジュマは紙と鉛筆を持ち出し、7000ウォンと10,000ウォンのコースがあるぞどっちにするんだ?といった事を書いた。
貧乏バックパッカー4人は迷わず7,000ウォンのコースをチョイスし、着席。すぐさま料理が運ばれてくる。どこに行ってもほとんど待たされないのには関心させられる。
宮廷料理の名残とは言っても、内容は家庭料理。大根とカルビの煮物やサンマの塩焼き、様々なキムチそれにご飯と味噌汁でテーブルは一杯だ。
キムチと一言で言っても膨大な種類があり、全く辛くない酢漬けも牡蠣や烏賊の入った塩辛風も全部キムチと呼ばれるのである。どんな店でも大抵キムチは水と共に出され、水同様にお代わり自由だったりする。
そしてどうでもいい事だが、韓国ではおかずは箸で食べるがご飯はスプーンで食べるのが礼儀である。
サンマなど別に珍しくもないのだが異郷で味わうそれはまた格別。まぁ実際には単に腹が減っていただけの事なのだが、丸々と太ったサンマは瞬く間に骨を残すのみとなった。
するとアジュマが黙って皿を下げ、新たなサンマを持って来るではないか。頼んでもいないのになぁ・・・と思いつつもほどなくサンマは再び骨に。そして三たび登場するサンマ。
サンマばかりでなく、どの皿も空いたものは素早く山盛りの新しい皿にすげ替えられている。
ここでようやく気付いた。つまり、残さないと終わらないのだ。
中国では残すのが礼儀、というのは知っていたが韓定食もその流れを汲んでいたのだ。もうお腹一杯食べられません、という意思を残すという行動で示す。言葉が通じなくてもこれなら簡単だ。
そんな「給仕付きバイキング」を心行くまで堪能した4人がそろそろ帰るか・・・と話していると、隣の2人組の一方が「キムチの味はいかがですか?」と話し掛けてきた。おいしいですよ〜などと適当に相槌を打っていると、これから一緒に飲みに行きましょうなどと言うではないか。
2人とも会社員風、初老の男性だ。おそらく日本が韓国を植民地支配していた頃の生まれであろう。下手をすると反日感情むき出しにして説教されるかもしれない。強い疑念を抱きつつも、この機会を逃すのも惜しい。説教されてもそれはそれでいいネタじゃねぇかと付いて行く事にした。

韓定食の店を出てすぐの場所にあるバーに移動する。ソファーに座った2人は自己紹介をした。長身痩躯でいかりや長介風、日本語が堪能な1人は張さん、もう1人の大江健三郎風メガネオヤジは朴さんと名乗った。どうも2人共韓国ゼネコンのお偉いさんのようである。そんな方々がが日本人の貧乏バックパッカーを捕まえてどうしようというのだろうか。



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第10話 ハワイアン韓国へ行く その5

韓国卒業珍道中もはや中日。今日は1日釜山に滞在する予定だが、これと言って予定がある訳ではない。コンビニのカップラーメン(基本的にどれも辛い)で朝食を済ませ、町に出る。
釜山もソウル並の都会だが、やはり20年前の日本といった風情。店を覗いたりホームレスを観察したりしつつ、海岸に出る。海岸線に沿った通りはちょっとした市場といった風情で、海産物を並べた露天が所狭しと並んでいる。ここらでおいしい魚料理でも・・・と、1件の薄汚い食堂に入る。
ここで食べたのは海鮮ビビンバ。酢飯の上に白身魚や貝類の刺身とサニーレタス、コチュジャン。「ビビンバ」というのは「混ぜごはん」、もっと言えば「混ぜて食べるごはん」という意味なので、別に具がナムルやユッケじゃなくてもビビンバと呼ばれるのである。すこぶる美味。
海岸を離れ、ふたたび街中へ戻り古びたレコード屋へ。ソウルのお洒落な店と違い、アメ横にある演歌専門店のような雰囲気なのでここならポンチャックがありそうだ。
店番が若いアガシ2名で若干不安になるが、やはりポンチャックコーナーがしっかり店の一角を占めている。あまりにも数が多すぎて迷うが、考えても内容は分からないのでジャケットの挿絵が非常に楽しげな1本を選び、K塚に「カラオケ」と書いてない事を確認してからレジへ。鼻を広げてアガシにテープを渡すと、「オーポンチャック!!」と大笑いしている。なんてこった。「若者は聴かない」どころか嘲笑の対象じゃねぇかよ・・・ジャケでナウなヤングがフィーバーしてるじゃねぇか!!・・・まぁ別にいいよ。笑いたければ笑えよ笑われるのは慣れてるぜ!と代金をカウンターに叩きつけ店を出た。
ナウなヤングがフィーバー


歩き疲れたので宿へ戻る事にするが、道すがらエロ本が山積みになった魅力的な露天を見つける。韓国エロ事情を知っておくのも大事なことであろう、とそれぞれ物色をはじめる。もっとも全ての商品にビニールのカバーがかかってしまっているので表紙・裏表紙から精一杯想像力を働かせ、各々がこれぞ!という1冊を選び出し購入する。
宿に戻り、早速エロ本のビニールを破る。あれだけ渇望していたポンチャックがやっと手に入ったというのにこのザマである。何事も所詮エロにはかなわない。期待に胸躍らせながらページを開く。
・・・
なんじゃこりゃあっっっ!!日本のエロ本のコピーじゃねぇかぁぁぁ!!!
エロ本と言っても中学生の頃に愛読していたようなアイドル系グラビア雑誌である。水着ばっかりでビーチクすら写ってない。
がっくり。
まぁそれでも僕とK塚は後でちゃんと活用した訳だが(詳細略)。

気を取り直してポンチャックを聴く。おぉ今度こそ歌入りだ。しかもハイトーン。まぁ考えてみれば日本の演歌もハイトーンだけどね。・・・それにしても暑苦しい。脂っこい。これこそ俺の求めていた音だぜ・・・とようやく満足。
すっかり日も暮れ、腹も減ってきた。ガイドブックにやると宿のそばに韓定食の店があるようなのでそこに行く事にする。韓定食というのは家庭料理フルコースみたいなものである。
宿を出て歩き回るが、ガイドブックの店は見つからない。代わりに「韓定食]と看板の出た店があったので、ここでいいや・・・と暖簾をくぐった。
この時点ではこの夜が今回のハイライトになる事など誰も予想していなかった。


余談:久しぶりにポンチャックを聴いてみた。これはプログレだね。プログレッシブ演歌。



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第9話 ハワイアン韓国へ行く その4

ロックンローラーにしては早起きをして、布団の中から手を振るアジュマを背に宿を出る。
釜山に行くには電車かバスだが、バスが圧倒的に安い。距離は確か500キロくらいあるのだが、料金は1万ウォン程度。日本で例えると東京から京都まで1,200円で行けるという事だ。所要時間は5時間程度らしい。
安い、速いは分かっているのだが、乗り場がよく分からない。町外れのトンネという場所にバスターミナルがあるようなのだが、地図を頼りに歩いてもさっぱり分からない。仕方なくタクシーを拾う。韓国には一般と模範、2種類のタクシーがあり、緑の表示灯が目印の一般は安く台数も多いが運転は乱暴で日本語なんて勿論通じない、ボッタクリの危険も大。黄色い表示灯の模範タクシーは若干高いがクルマは高級車で運ちゃんも折り紙付きの紳士揃いで日本語もオッケー・・・らしい。
ヘタレな我々は迷わず模範タクシーに乗り込み、無事高速バスターミナルたどり着く事が出来た。運ちゃんは確かに日本語堪能な紳士で安心だったが、この辺で乱暴な運転&ボッタクリに触れておくのも楽しかったかも・・・などと思ったりも。
バスターミナルはちょっとした鉄道駅といった雰囲気で、行き先別の時刻表(次が何時発で・・・みたいに表示が変わる奴)と乗車券売り場が並んでいる。英語表記もあり、特に迷う事も無く釜山行きの切符を手にする事が出来た。ひとつ気になったのが時刻表に一緒に表示された料金。同じ釜山行きでも8,000〜12,000ウォンと開きがある。我々は迷わず一番早い便のチケット(10,000ウォン程度だった)を買ってしまったが、選べばもっと安い便もあるようだ。まぁ安い奴はバスがボロボロとかいうオチもありそうだが。
バスを待つ間、自販機でコーヒーを買って飲む。紙コップ式と普通の缶入りをみんなで色々買ってみるが、どれも凄まじく甘く、そして不味い。ビールはそこそこ美味いのだが・・・
コーヒーでふと思い出したが、初日に金浦空港のマクドナルドに寄ってコーヒーを飲んだ。モノの本に「韓国ではコーヒーを“コッピ”と言います」などと書かれているものだから張り切って「コッピチュセヨ!」と叫ぶとあっさり「コッフィーですね?」と日本人より遥かに英語に忠実な発音で切り返された事を思い出した。
さて、バスである。確か11時過ぎの発車だったと記憶している。ごく普通の観光バス、といった雰囲気で、ワンマン。客席はまばら。時間通りにターミナルを発車し、高速道路に入りどんどんスピードを上げる。もっとスリリングかと思ったが何の面白みもなく、ポンチャックもかからない。
知らない人のために解説しておく。ポンチャックというのは韓国音楽のいちジャンルで、乱暴な言い方をすれば「テクノ演歌」である。当時っぽく言えば「ユーロビート演歌」かな。安物のシンセサウンドに乗せたド演歌がメドレーになっていて、メディアはCDやレコードではなく必ずカセットテープ。A面B面に各1曲ずつしか入っていないのが特徴である。1曲という表現は不適切かな。無理矢理つなげてるだけだから・・・。そしてこのシンセのベースラインが必ずオクターブで「ポンチャッ、ポンチャッ」というリズムを刻み続けるので「ポンチャック」という名前が付いたらしい。高速バスではこれがエンドレスでかかり、ババア共が踊り狂うという事前情報もあったのだが、少々事情が違ったようで残念。貸切ツアーなんかだとそうなるのであろうが、乗り合いでやりほど韓国人もバカではないという事か。
日本でもこの少し後にイ・パクサ(李博士)が日本の歌謡曲をポンチャックにアレンジして小ブレイクしたのでご存知の方もいるであろう。
しかし本家でポンチャックはあくまでも演歌。年寄りが聴く音楽なのだ。そして僕はどうしてもそれが聴きたかった。ソウルのレコード屋では入手出来なかったが、高速のサービスエリアには必ず売っているらしいので是非入手しておきたいところだ。
2時間ほど走り、バスは側道へ。おぉこれはまさにサービスエリア。バスが停まり、運転手が二言三言乗客になにか告げると、韓国人達はゾロゾロ降りて行く。トイレ休憩か。我々も続けて降りる。
トイレもそこそこに、いそいそと売店へ・・・あったあった。一角をテープ売り場が占めている。しかし僕はハングルが全く読めない。唯一読めるK塚はバスに残っておりいない。さんざん迷った挙句、結局直感で1本のテープを購入し、バスに戻る・・・なんとっ!!バスが発車してるっ!!!
大慌てで駆け寄り、手を振るとバスは止まってくれた。こんな所で置いてきぼり喰らったら野垂れ死にである。危ない所だった。
その後バスは無事釜山に到着し、釜山なのに何故か「ソウル荘旅館」という名前の安宿に荷物を降ろした。料金はソウルの宿と同じく8,000ウォンだが、こんどはぶっきらぼうだが優しいアジュマもしっかり日本語を解したので2部屋取る。広くて非常に快適な部屋だ。
早速購入したテープを聞いてみる。安っぽいシンセの音、単調なベースのリズム・・・間違いない、これがポンチャックだっ!!・・・でも、歌が始まらない。おっかしいなぁ・・・とその時、ジャケットを眺めていたK塚が一言。「これポンチャックカラオケって書いてあるじゃん・・・」
呆然。ポンチャックにカラオケがあるとは・・・侮り難しポンチャック。侮り難しコリアン。

あまりのショックで、この日何を食べたかすら覚えていない。
明日こそ絶対に歌入りポンチャックを買ってやる。





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第8話 ハワイアン韓国へ行く その3

街に出てはみたものの、別に行く店が決まっている訳ではない。ガイドブックに載ってる店じゃ詰まらないし、安くもない。韓国と言えば焼肉だが、牛肉は決して安いとは言えない。有名な店だとカルビ1人前20,000ウォンなんて普通である。無論、はなっからそんな店に行く気は無い。
ああでもないこうでもないと話しながら道を歩いていると、K塚が若い現地人に呼び止められる。どうやら煙草の火を貸してもらいたいようだ。K塚がライターを貸すと、彼は韓国語でどんどん話し掛けてくる。この頃からアジアのホープは「アジア顔」で、どこの国でも現地人に間違えられる要素を持っていたのである。K塚がやんわりと「日本人だよ・・・」と伝えると、彼の顔つきが変わる。日本語で「日本人ですかぁ〜!ボク日本の早稲田大学に留学してました!」などと言うではないか。なんか胡散臭いなぁ・・・と思いながら話を聞いていたが、どうやら怪しい人間ではなさそうである。彼(名前は失念したので以後「彼」と呼ぶ)は僕等よりもいくらか年上で、大学を出て今は兵役に就いており(韓国で兵役は成人男子の義務)、今は休暇中との事である。
すぐに意気投合し、一緒にメシを喰いに行く事にする。どんな店に行こうか・・・なんて話の中で、O内とS武が「韓国って犬食べるんだよね・・・」「犬料理の店なんてどこにあるんだろう?」といった話を始める。それに彼が喰いつく。「犬おいしいですよぉぉっ!!犬食べに行きましょう!!」と歩くピッチを早める。どうやら犬料理の店に連れて行ってくれるようだ。初日からなんという幸運。期待に目を輝かせつつ後に続く4人。
5分ほどで汚らしい店の前に到着。だが様子がおかしい。彼が残念そうに「今日休みです・・・」がっかり。気を取り直して別の店へ。彼が案内してくれたのは、豚肉の焼肉を食べさせてくれる薄汚い食堂だった。食文化として犬料理が存在するとは言っても、やはり店の数はそれほど多くないのであろう。牛肉以上の高級品だという話もあるし、あまり深く追求してハマってもしょうがない。壊れそうな戸を開き、店内に入る。床は土のままで、吸殻も食べカスも捨て放題。脂ぎったテーブルにカセットコンロ。コンロの上にはアルミ箔をひいた小さな鉄板が鎮座している。席につき彼が店のアジュマにウラリロラ!!と一言二言告げると、矢継早に食材が運ばれてくる。豚肉、様々な種類のキムチ、辛味噌、葉っぱ類、それに生のニンニク・・・
彼が手本を見せてくれる。肉を鉄板で焼いて包み菜に乗せ、その上に辛味噌と生ニンニクを乗せて巻いて食べるのがコリア式のようだ。生ニンニクなんて辛くて食べられないよ・・・と思いつつ、真似てみる。美味い。どうやら日本で流通しているニンニクと韓国のそれとは品種が違うようである。
肉自体は脂気も無く味がついている訳でもない。とても料理とは呼べるような代物ではないが、それでも十分美味い。腹ぺこヤングには最適だ。腹一杯肉を食べ、ビールをしこたま飲み、仕上げはアジュマの作るキムチ炒飯。テーブルの残り物を全て鉄板にぶち撒け、さらに大量のキムチとご飯を追加して炒めただけ。それなのに、涙が出るほど美味い。侮り難しコリア。
しこたま飲み食いして、お礼代わりに彼の分を4人で分担しても@2,000円しなかったと思う。
その後、彼の案内で明洞のレコード店へ。ミュージシャンとしては韓国音楽に触れない訳にはいかないだろう。当時韓国ではレゲエやラップが流行していたが、流行りモノに興味があるのはK塚だけ。O内はチョー・ヨンピルのCD、僕は横浜銀蝿風でもあり、ロックオタク風でもある兄ちゃんがジャケに写ったカセットを1本買った。本当はポンチャック(後に詳述)が欲しかったのだが、彼に「若い人は聞かないよぉ〜」と一蹴されてしまった。

彼とはここで別れ、宿に戻る。アジュマは帳場の奥でもう寝ているようだ。
早速買ってきたカセットを聴いてみる。横浜銀蝿というよりも尾崎豊のような暑苦しいロックだった。
初日からディープなコリアの一面を垣間見る事が出来、大満足でS武と1つの布団を分け合い、寝る。

明日は高速バスで釜山だ。



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第7話 ハワイアン韓国へ行く その2

金浦空港に降り立つ。何となく空気が韓国料理に染まっているような気がする。寒い。日本より緯度が高いのだから当たり前なのだが、底冷えする空気である。
イミグレーションを抜け、各々銀行で両替する。出発時の所持金が3万円の僕は、帰国時の電車賃を考えて2万5千円を窓口に出す。窓口のアガシはちょっと驚いたような様子で片言の日本語を話した「コレダケデスカ?」・・・大きなお世話だ。
ここからソウル市街に移動したのだが、バスだったかタクシーだったのか記憶が抜けている。いずれにしてもソウル中心部・明洞(ミョンドン)の高級ホテル・世宗(セジョン)ホテルの前に降り立った薄汚いバックパッカー4人は颯爽とホテルの回転扉を抜け、ロビーでゆっくりとくつろぎ、その後にチェックインは当然のようにせず、安宿を探すべく雑踏へ足を踏み入れて行ったのである。
当時のソウルの街並みは、日本よりも20年くらい遅れている印象。大きな綺麗なビルも目立つが道路は埃っぽく、車はたえずクラクションを鳴らしながら爆走し、中心街を少し外れると物乞いがそこかしこに見受けられた。
「地球の歩き方」を頼りに見つけた宿は薄汚い路地裏にあり、我々がドアを開くと年季の入ったアジュマ(おばちゃん)が顔を出す。女主人がひとりで経営しているようだ。年配の韓国人は往年の植民地支配の影響から大抵日本語が話せるのだが、彼女は全く駄目らしい。K塚のたどたどしい韓国語と身振り手振りで「4人でひと部屋あるか?」と聞く。アジュマは満面の笑みで我々を招き入れ、部屋を見せてくれる。古いが部屋は小奇麗で、6畳くらいだろうか。野郎4人には少々窮屈だが、@8,000ウォン(約1,000円。当時100ウォン=12円くらいの相場だった)ではあまり贅沢も言えない。全員が納得の上でここに決めたぜおばちゃん!と意思表示する。でも待てよ。布団が2つしかないけど・・・?
するとアジュマはニヤリと笑い、まず指を2本立て、次にゆっくりと1本立てた。つまり、「2人で1つ」と・・・えぇぇっ??
一瞬面食らった僕等に女主人が吐いた言葉はなんと「ケンチャナヨ!!」だった。
のっけからケンチャナヨ精神が炸裂。そして僕等にも一気にケンチャナヨ精神が染み渡り、ケンチャナヨケンチャナヨと笑顔で連呼しながら荷物を部屋に下ろしたのであった。
後から考えてみると、2人部屋を2つ借りても値段は多分一緒だったんだろうと思うが、アジュマは僕等が4人一緒じゃなきゃイヤなんだろうと気を遣って2人部屋だがいちばん広い部屋に通してくれたんじゃないだろうか・・・なんて思うのである。
K塚がアジュマに聞いたところによれば門限は無さそうな感じ。床はオンドルで暖かく、お湯もちゃんと出る。未開の地じゃないんだから当たり前と言えば当たり前なのだが、まずは一安心。
早速余計な荷物を部屋に置き、陽の落ちはじめた町へと繰り出す4人であった。



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第6話 ハワイアン韓国へ行く その1

ここからしばらく続き物として、韓国卒業旅行の事を書き記す。たかだか10年前の事なのに記憶がかなり曖昧になっている事に愕然としつつ・・・

今の大学生がどうなのか知らないが、当時は卒業旅行に行く大学生はけっこう多かったように思われる。我々ハワイアン@91の4人組(K塚・O内・S武・S野=僕)もご多分に漏れず、そんな悠長な事をしていられる身分では無いにも関わらず、色々と計画を練っていた。なにしろ4人のうちまともに就職が決まり卒業も大丈夫、という状況なのはO内だけだったのだから。
しかし、卒業してしまえば4人で旅行なんて不可能であろう。就職できなかろうが卒業が危なかろうが、社会の歯車になる前に云々・・・なんて職も決まってないのに青臭い事を抜かしていた自分がそこにはいたのだろうと思われる。
行き先は直ぐに決まった。というよりも決まっていた。近くて遠い国・韓国である。K塚と僕は韓国渡航経験があり、ネタの豊富さは良く知っていた。韓国人の気質・国民性に関しては言いたい事が山ほどあるが、それはとりあえず置いておいてメシは美味いし物価は安い、交通機関も日本に比べればタダ同然で貧乏人が楽しむにはもってこいの場所だ。O内も乗り気。S武だけが「オレ辛いモノ苦手なんだよぉぉ〜」と渋ったが、最終的には皆の説得に折れ、卒業試験後の2月中旬の予定で計画は進められた。
東京から鈍行を乗り継いで下関まで行き、関釜フェリーで現地入りするというのが当初の計画だったが、阪神大震災による交通網の麻痺と、時間も金もかかりすぎるという理由から却下。素直に成田から飛行機で向かう事にする。目的地はソウル・釜山で4泊5日。
往復の航空券代金は3万1000円。試験でバイトも出来ず台所事情は苦しかったが何とか捻出したものの、現地に行って使う金が無くてはどうしようもない。必死になって3万円かき集め、日数分のパンツ・靴下・Tシャツと煙草・パスポートだけの荷物でいざ出発。
京成上野駅で仲間と合流し、電車で成田へ。4人の中で一番飛行機慣れしてない僕は次第に緊張が高まる。未だに飛行機は苦手で、気流が悪くて揺れまくってるのに平気でイビキかいていられる人が本当に羨ましい。
航空会社は大韓航空でなく韓国NO.2のアシアナ航空で、盛り上がる旅慣れた3人を尻目に僕は座席で固まっていたような記憶がある。
機内でO内は根本敬の「ディープ・コリア」かなにかを取り出し、「韓国はケンチャナヨ精神の国だってよ。よし、まずこれを覚えよう・・・ケンチャナヨ・・・ケンチャナヨ・・・ケンちゃんと美奈代だな・・・」なんてバカ丸出しの話をしている。そんな言葉の前にアンニョンハセヨくらい覚えろよ・・・と思いつつただ固まる僕。ちなみにケンチャナヨというのはTake it easyくらいの意味である。さらに現地のアガシ(おねえさまの総称)と一緒に写真を撮るにはどう話し掛ければいいのか等々、勇気も根性も無いが欲望だけは脳内で肥大化の一途を辿るバカ大学生を乗せ、ボーイング747は日本海を越え、一路ソウル・金浦空港へ・・・

余談:金浦空港の字が思いつかず検索したら大改装したみたいでびっくり。仁川に新しい国際空港が出来た事は知っていたが、それにもめげず国内線中心で且つ巨大ショッピングモールが併設されたようだ。



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第5話 史上最低の釣り

また釣りかよ、と言わずにまぁ読んで下さいな。

かれこれ5年ほど前の話である。当時通っていた床屋さんのあんちゃんが釣り好きで、いつもああでもないこうでもないと釣り談義に花を咲かせていたのだが、ある時近所の穴場を教えてもらった。車で20分ほど、裾野市の山中にある小さな池で、ブラックバスの大物が狙えると言うではないか。いつも2時起きで山中湖まで遠征していた僕は近所にそんなトコあるならそこでいいじゃん!と、早速行ってみる事にした。
書いてもらった地図を頼りに愛車・インテグラXSi(10年落ち)で山道を行く。車高の低い車にはかなり厳しい悪路だ。・・・左手にビニールハウスがあって、あぁこの先が分岐しててそこを右で・・・ガクッ。あれっ?…落輪したぞ。地図に気を取られ過ぎて、かつ草ボーボーで左脇の側溝に気付かなかったようである。とりあえずクルマを降りる。縦横30cmほどのありふれたコンクリートの側溝に左前輪が完全に落ちてしまっている。
参ったなこりゃ。とりあえず運転席に戻り、ステアリングを左一杯に切る。ギアをリヴァースに叩き込み、VTECを吹かしてクラッチを上げる。ゴムのこすれるイヤな音が響くばかりで、上がって来る気配もない。これ以上ヨコハマ・グランプリM5を傷付けるのは得策ではないと判断し、再びクルマを降りる。
おもむろにバンパーを持ち、うんこらしょっ!と持ち上げてみる。怪力選手権じゃあるまいし、かつて雑誌広告で一世を風靡した「ブルワーカー」のマンガに出てくる「以前の僕はひ弱を絵に描いたような男で…」を地で行く僕に持ち上げられる訳がない。そうだ力が無いならアタマを使え。側溝に石を積んでスロープを作ればいいんじゃないか?よし、やってみよう。早速そこらから手頃な石をかき集め、脱輪個所に回る。側溝のすぐ先は高い石壁になっており、クルマとの間は50センチほどしか開いていない。体をよじって側溝に手を突っ込み、石を並べようとした刹那、クルマがゆっくりと壁側に動いているのに気付いた。慌てて顔を上げる。それまで前輪にばかり気を取られていて気付かなかったが、後輪もギリギリのところで踏み止まっている状態だったのである。それもぬかるんだ泥の上。そして僕があれこれこねくり回している内についに堪え切れず落下を始めたのである。
潰される!!・・・ゆっくりと落ちて行く後輪と、それに伴い狭まっていく僕の身の置き場。頭の中を「釣りの会社員、自分の車と壁に挟まれ圧死」の新聞記事が駆け巡る。こんなトコで、こんな死に方するなんて・・・・・・
必死の思いで体勢を立て直し体を壁に張り付かせ、直後に左後輪は鈍い音を立て完全に落下。最悪の事態は免れたもののもはや自力ではもうどうにも出来ない状態である。仕方ないJAFを呼ぼう、とグローブボックスを開ける。・・・会員証が無い。しまった・・・こないだ届いた会員証家に置きっぱなしだ・・・まぁいいか。最初の1回は会員証無くてもおっけだったよな。とにかく電話しよ・・・携帯が無い。よりによって携帯不携帯。仕方なくクルマも釣り道具も全て放置し、下界まで歩いて降りることにする。20分ほど歩き、ようやく腐りかけたような、田舎にありがちな雑貨屋兼食料品店風の店を発見。店は休みのようだが、公衆電話はある。タウンページを開き、ふと考える。JAFって何屋だ?・・・今思えば「ロードサービスだろっ」と浮かぶのだが、窮すれば鈍する、である。「自動車修理」とか「レッカー」とか、ちょっと的が外れた場所を必死に探す。10分ほどしてようやく己の過ちに気付き、JAF富士営業所の電話番号を発見。10円玉を投入しダイヤルを回す(回してないけど未だにこの言葉の方がしっくりくるのは僕だけ?)。・・・「落輪です。場所は裾野市・・・」「あぁそれでしたら沼津営業所に掛け直してください。番号は・・・」おいおい紙もエンピツも無いよ。がんばれ俺の脳味噌・・・ブツブツと聞いた電話番号を唱えつつ、次の10円玉を探す。・・・無い。しょうがない100円玉で・・・100円玉も無い。テレカなんて持ってたかな・・・あぁあった。でもこの保険屋に貰った森高千里(非売品)は使えん!でも他に無いよ・・・ごめんよ森高・・・
30分後、精根尽き果てた僕のもとに現れたJAFの兄ちゃんが神様に見えた事は言うまでもない。

コレ、釣りの話全然出て来ないじゃん。だってこの後釣りする気にはさすがにならず、そのまま帰っちゃったんだもん・・・

余談1:目的地には後日辿り着けたが、魚は全く釣れず・・・

余談2:この時のテレカは未だに免許証と共に持ち歩いている。お守りみたいなもんですね。疫病神のだけど。

(2004年5月20日)



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第4話 Winny製作者逮捕(怒)

PC使って飯喰っている人間にとって、或いは音楽を愛する人間にとってこの話題は避けて通れない。別の文章を用意していたのだが、こちらに差し替える。
違法ダウンロードについて議論する気はさらさら無い。僕が問題にしたいのは、違法な物を押さえつける方法が間違った方向に進んじゃいないか?という事。
酷い音質のCCCD。輸入盤の販売禁止を含む著作権法改正法案。これらは一体誰の為にやってる事なの?「著作者の権利を守る」という大義名分の下、利権を独り占めにしようとする腹黒い連中の影が見え隠れしてない?
逮捕された47氏=金子氏は現行のポンコツ著作権法に風穴を空けようとした素晴らしい技術者だと僕は思う。技術的な難しい話は僕には理解出来ないけど、使い方によっては全く新しい著作物流通手段となり得た、日本が世界に誇ることが出来たかもしれないソフトウェアの開発者をなぜこの時期に逮捕したのか?
「ハイテク犯罪」(笑。ハイテクって何だよ)で大活躍の凶徒不敬が身内の不祥事に逆ギレして強引に逮捕したようにしか僕には思えないけど?
「挑発的態度」が逮捕理由って、ここは北朝鮮ですか?
キンタマウイルスの作者が捕まえられないから代わりに捕まえただけじゃないの?
それとも「CDが売れないのは違法ダウンロードのせい」なんて品質の著しい低下は棚に上げて吼えてる方々にそそのかされた?

おかしい。この国はどんどん間違った方向に進んでいるとしか思えない。

最後に金子氏不当逮捕に関するページをいくつか紹介しておく。

Winny開発者 47氏を救う為に

Out of heaven

Winny開発者の47氏を応援するページ


さらに一言。報道を鵜呑みにするな。賢いハワイアン諸兄は大丈夫だとは思うが。

(2004年5月11日)




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第3話 人生という名の競馬場

僕は賭け事が嫌いではない。
特に、競馬が大好きである。
昔はパチンコも散々やったが、運だけで勝敗が決まってしまう機械相手に大金を投じるのが馬鹿らしくなってしまい、今は全くやらない。同じ理由で宝くじも買わない。
麻雀も大好きだが、賭け麻雀は刑法185条に抵触するのでやったことがない事にしておく。たとえ僕がハワイアン時代に「麻雀部長」と呼ばれ、先輩に「麻雀やってる暇あるならギターの練習しろ!」と説教されていたにしても、である。

競馬はいい。たとえ百円しか所持金がなくても馬券は買える。千円札1枚で1日楽しむことも可能だ。「それなら競輪でも競艇でもいいじゃん」といわれそうだが、それは違う。
馬が走るから、面白いのである。
自転車こいだりボート走らせたりなんてのはいくらでも調整ができる。人間がやる事だからね。作為的な不確定要素に大事な金は注ぎ込めない。
馬だって人間が乗ってるじゃねぇか!と言っても、走るのは馬である。この不確定要素をどう検討するかが面白いのだ。
馬の能力・実績・調子、騎手の能力、距離、ペース、天気まで鑑みて十二分に時間をかけて予想し、100円の馬券を買う。これが醍醐味だ。
外れたってたかが100円、当たれば何倍かにはなる。それが次のレースの資金になる。別に競馬で生活している訳ではないので、それでいいのだ。博打で儲けて何かしようとか何を買おうとか考えるのは馬鹿げている。そんな事は儲けた時に考えればいいのだ。

競馬には賭博の要素とはまた別の、血のドラマがある。
ダービーで惜敗した大好きなあの馬の仔が、親の無念を晴らす。
親子三代で、同じレースを勝つ。
現役時代ライバルだった牡馬と牝馬の仔がデビューする。
別に高原系ポエム女のように、競馬にロマンを求めている訳ではない。
負け続けることでのみネタにされる、つまり勝つ必要のない駄馬に「励まされました!」なんて抜かすバカも嫌いだ。
軽すぎる。
競馬は人生そのものである。
いつも最後の直線で弾丸のように飛んできて、でもいつも勝馬には届かないあの馬に、ゲートが開いた瞬間まるで何かに追われているかのように暴走し、ゴール前で力尽きて後続に飲み込まれていくあの馬に、勝ち続けることでしか生き残れない雑草のような血統のあの馬に、いくら結果を残しても次走は他の騎手に馬を取られてしまうあの騎手に、自分を重ねるのである。
競馬は、競走馬は、勝ってこそ価値がある。しかしながら、勝つだけが全てではない。だからこそ負け組と呼ばれる人々が今日もどこかの競馬場で、名もなき自分の分身の単勝馬券を握りしめているのである。



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第2話 思い出話

草加の話に続き、もう1つだけ大学時代の思い出話を書いておこう。
ハワイアンの仲間達と1度、釣りに行ったことがある。面子もおぼろげにしか覚えてないのでここには明記しない。時期は確か期末試験明け、2月だったと思う。
4時に目黒集合との事で、普段眠りにつくような時間に起床しクルマを走らせる。仲間と合流し、第三京浜を横浜方面へ。たどり着いたのは「本牧海釣り公園」。
寒い。吹きっさらしの防波堤である。人出はまばらで、どす黒い水面が強風にさざめいている。こんな所で釣れるのかよ・・・と若干の不安を抱きつつ、準備に取りかかる。
このとき僕は、秘密兵器を用意していた。夜中の海外テレビ通販モノで仕入れた「フライングルアー」なる代物で、ルアーが勝手に魚の居場所に泳いで行ってくれる!という画期的な商品なんだそうだ。いくら夜中だったとはいえ思わず瞬時に注文の電話をしてしまった僕も僕だが、届いた商品はいかにも不器用なアメリカ人が作りました、というお粗末な造形で、色も自然界にはどう考えても存在しないようなジェリービーンズばりの蛍光色ばかり。チクショー騙しやがったな毛唐め・・・と臍を噛んでも後の祭。貧乏学生の身分でこんなゴミに4,000円も突っ込んでしまった自分の非を認めたくないが為に、「でも実際に使ったら凄いかもしれないぞ・・・なんてったって自分で泳ぐんだからなっ!!」と、自らを奮い立たせてその場を収めたのである。
そして迎えた実戦。ロッドにリールをセットした時点であまりの寒さにヤケクソになった僕は、早速「秘密兵器」を試してみることにする。おもむろにケースを開けると、大小各種揃ったフライングルアーの中から最も大きな、長さ20センチほどもあり、しかもショッキングピンクの可愛い奴をチョイスした。かじかむ手でラインを結び、暗黒の水面に向かい第1投!!
・・・僕の送り込んだピンクの怪物に対し自然界からの反応は小指の爪の先ほどもある訳は無く、僕が力無く巻くリールに応じヨレヨレと戻ってくるのみであった。その情けなく、かつあまりに目立つ姿を目の当たりにし、さすがに騙された事を認めない訳にはいかなかった21歳の僕・・・
秘密兵器が予想通り不発に終わり、普通の餌釣りに切り替える。
・・・釣れない。釣れるのは産業排水で強大化したヒトデのみ。ふと朝日が射し始めた辺りを見回すと、そこかしこに干からびたヒトデの死骸が・・・・・・
すっかりやる気を失った僕は冷え切った心と体を温める為に自販機でコーヒーを買う。しかしあまりの寒さに口の中の感覚すら麻痺してしまい、熱いのか冷たいのかすら分からない。こんな経験をしたのは後にも先にもこの時だけである。
思い出深き、「史上最低の釣り」であった。
(2004年5月1日)

追記:「フライングルアー」は、今なお販売中のようである。定価6,800円・・・そんなに高かったかな・・・
「犠牲者」ばかりでなく、大物を仕留めた!との声もチラホラ。要は使い方という事か。


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第1話 草加物語

大学を卒業してから、草加には数回しか行っていない。
それも全て卒業した年から1年以内の事で、もうかれこれ10年近く足を踏み入れていない事になる。
草加という街自体は嫌いだし、この場をセンチメンタルな思い出を語る場にする気もさらさら無いのだが、ごくたまに「あの店は今どうなっているんだろう・・・」と無性に気になる事があるのも事実である。
松原団地の東口?(大学の反対側)に「肉」という店があった。本当はちゃんとした本名があるようなのだが、表看板の「とんかつ定食の店」の横に巨大な文字で「」と書いてありゃ、誰だって「肉」だと思うわな。おいしい、という噂もちらほら聞いたが、結局4年間行かずじまい。今となってはこれを一番後悔している。
松原東口といえば、やはり「ブルマン」抜きには語れない。今思えばどうって事の無い煮込みハンバーグがその当時は素敵なご馳走だった。しかしたとえブルマンが現存し、メニューが変わっていなくても、僕はもう、決して煮込みハンバーグは食べない。理由を書く必要は無いだろう。
通りに本屋が確か3軒あったと思うのだが、1軒がどうしても思い浮かばない。一番手前が一番キャッチーで、一番遠くはかなりシブ目なのだが僕はここで生まれて初めて「薔薇族」を読み、世界の奥深さを痛感したものである。それ以後読んだ事は無いけどね。
そして最も気になるのがマイホームタウン・新田駅そばの中華「珍来」の事。
東武沿線に点在し誰もが知ってる「ちんくる」だが、新田ちんくるは他店とは一線を画す存在だった。注文してタバコに火を点けた瞬間「お待たせしましたミソラーメンですっ!!」と、待ってねぇよ俺が来る前から作ってただろお前!と言いたくなったり、フランス人のエリックが餃子焼いてたりと突っ込み所満載だった松原ちんくるなどとは全くの別物。店員は無口で武骨だが瞳の優しい親父と、愛想良く店内を駆け回る奥さんのみ。夫婦揃ってやたらと腰が低く「はいおにぃさんラーメンすいませんねっ」「はい500円すいませんねっ」「ありがとうございまーすすいませーん」と、語尾に必ず「すいません」と付いてしまう。味は何故かちんくる他店よりも地味目だが、炒め物の味は格別。自炊に疲れた時にはついつい暖簾をくぐってしまう日も少なくなかった。
そのうち顔なじみになると端数をオマケしてくれたり大盛りサービスしてくれたりと良くしてもらったのだが、卒業以来当然顔を出していない。挨拶すらしていない。
卒業前には息子と思しき青年が出前の手伝いをしていたので、もう代替わりしてしまったかもしれない。だが、僕は信じている。息子とその奥さんもきっと言っているはずだ。「はいおにぃさんラーメンすいませんねっ!」と。
(2004年4月30日)

追記:「珍来」は正式には「ちんらい」である。念のため。



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