| 以下に散らす雑文は、わたくし金子ことBluekimがかつて見聞きしたことを極私的に記したものであります。てめぇでは大して時間など経っていない、つい昨日の話だなどと思っていたのですが、どうやら馬齢を重ねてしまったようで、随所で記憶が欠落しております。矛盾が多々あるかと思いますがご容赦ください。また、あくまで私的な見聞録ゆえ、登場人物の描写や状況の説明に主観・脚色が大幅介入していることもあらかじめご了承ください。 登場人物(赤文字)上にポインタを置くとポップヒントが表示されます。 カッコ内は学籍番号の上ふた桁と出身・居住地。名前に“氏”がつく人物はオレより年上あるいは学籍番号が上の方です。 |
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Vol.1……新歓おとこ舟 1983年春 |
| Vol5……近代ハワイアンの基礎かたまる お待たせしました。誰も待っていない。ハワイの歴史第5回です。どんどん極私的になってきましたがお許しください。今回はダラダラと長いので、途中で小見出しをつけてみました。よろしくお願いします。 ♪専用機材庫がやってきた! みなさんはハワイの機材庫は3棟の3階であることを当然として育ったかと思います。しかし、オレの若僧時代は違ったのだ。3棟2階で、軽音ロックと機材庫を共用していたのだった。 ♪またしても男ばかりが加入! さて、84年のクラブの状況を思い出そう。幸いなことに、新入部員が入ってきてくれた。やはり全員♂だったけどね。須藤(栃木県黒磯市(現西那須野市)出身)、野田(東京都立川市出身)、三村(福井県朝日町出身)、だ。この代はのちに山本(愛知県豊橋市出身)、佐原(埼玉県岩槻市出身)、秋山(東京都青梅市出身)、パンクス山田(埼玉県岩槻市出身)が加わり活況を呈すことになる。在校生は吉沢部長、亀井副部長(東京都練馬区出身)、加嶋会計、上野、小金、以上が3年生。2年がオレ、小中、高橋、花岡、田口、大塚、吉村、だったかな。実は藤生(群馬県館林市出身)、平田(和歌山県新宮市出身)の2名の女子もいたんだが、彼女らはなんというか、女性にありがちな優柔不断さがあり、活動にそれほど熱心ではなかった。他のクラブに秋波を送りつつハワイでも練習しちゃえ、みたいなね。 ♪永遠の愛機を入手せり 自分にかんして言うと、この年、オレは生涯つきあうことになるギターを手に入れた。 |
| Vol4……無題 で、ダンスパーティの話でしたね。実はもう当時の記憶がおぼろげになっていて、具体的にどうだったか忘れてしまった。ただ覚えているのは、やっぱりハワイは異物で、機材も明らかに他の連中から見劣りしていたこと。演奏じたいに問題はなかった。というか、クラブという名のもとに他人同士が時間をわかちあって、人前で音楽を演奏するということの意味を理解し、実行していたと思う。この理解と実行は、のちにハワイアンが音楽サークルらしからぬ益荒男な活動原則を貫くミナモトとなっていくわけですわ。 さて、夏休みだ。当時はわりと頭と要領ののよかったオレは前期試験にもさして苦労することなく、欣快な気分でハワイアン合宿に臨むことができた。 合宿地はおなじみ河口湖だが、今と異なり湖のずっと西のはずれ、西湖に近い長浜地区にある“丸木舟”という民宿が宿だった。加嶋さんが神奈川・相模原から山中湖へ抜ける国道413号、通称道志みちをサイクリング中に立ち寄って酒を呑み、主人と意気投合して使わせてもらえることになった宿である。 まあ実にボロいところで、練習場はスタジオなんてかっこいいものではないどころか、そんなスペースなどどこにもなかった! じゃあどうやって練習していたかというと、宿からクルマで5分ほど行った山の中腹にあるツブれた縫製工場に機材を持ち込んで勝手に使っていた。後に聞いた話だが、丸木舟の主人は地元の有力スジ者ゆえ誰も口出しできず、そのような暴挙が可能になったとのこと。 諸般の事情で合宿に参加した1年生はおれだけ。他に数人いたんだけど、どういうわけかオレだけ。ま、その時点でオレはすでにそれなりの地歩を部内で固めていて、他の1年生からアタマふたつくらい抜けた存在になっていたので、正直他の連中などどうでもよかったりした。ところが、合宿が始まってみるとオレは自分がやっぱり最下層の1年生であることを思い知ることになる。 バンドの練習以外はぜんぶ基礎練習みたいなことを強制的にやらされましたよ。あとは諸先輩の音楽論を延々と拝聴。あとは各種雑用。でも、酒はたっぷり呑ませてもらったし、理不尽で不当な扱いを受けるわけでもなくこちらの人格は尊重されていたから、ちっとも苦にはならなかった。宿から件の練習場までは、たいがい体内ガソリン補給をかました加嶋さんの綱渡り運転。ちなみに当時は機材をレンタカーのトラックで運んでいったんそれを草加へ戻し、後発の誰かしらがクルマで運転手をピックアップしてくるのが基本パターンだった。 こうして日々ハワイになっていったオレは、秋、はじめての学園祭を迎えることになった。教室は3棟2階の小教室。ここまでお読みになった諸兄は、どうやらオレがハワイアンの帝王学(実にショボい国の王だが)を叩きこまれつつある存在であることにお気づきでしょうが、学園祭でもその立場は変わらなかった。機材セキュリティ確保のため教室に宿泊する重要な任務を、いきなり命じられました。2年生で、現在は世界的なフォントデザイナーとなったドラムの小金さんと一緒だった。 演奏が終わって泊まらないヤツらは学外へ退去。8時の最初の点呼が終わって正門へ出ると彼らが待っていて、次の点呼までたらふくメシと酒をおごってくれた。さらに酒とメシを買い込んで教室に戻り、しみじみと音楽話などしつつ、他のクラブからメシと酒をもらったりしつつ、段ボールの上で寝た。なんか、大学生になった実感がしみじみわいてまいりましたねえ。 ……実は学祭の具体的な中身は、これまた失念してしまいました。あ、中庭ステージには出ました。そのために小中さんが友達からビンテージのヘフナー・バイオリンベースを借りてきて、服は渋谷109裏手の貧民窟にあったさかえやという古着屋で1500円の60年代スーツを調達。それをダイロンなる染料でむりやり染め、チンチクリンに縮んだ状態で臨んだ。靴は、オレはモッズだから当然クラークスのデザートブーツですな。 学祭の打ち上げで、当時部長だった中川さんが後任を指名。生粋の竹の塚人にして音楽人間とは思えない強面と体躯を持つ(しいて言うならアーロン・ネヴィルを東洋人にした感じ)吉沢さんが新部長となった。翌日の片づけから、さっそく吉沢さんが指揮を執ることになる。このシステムは今も続いているかな? 吉沢新部長は、実は音楽にそれほど詳しいわけではなくギャグのセンスにも乏しく、正直、なんでこの人がハワイアンにいるんだろ? てな感じの人だった。ただし、どこかしか人を惹きつける(萎縮させるとも言う)侠気があり、自ら決めた原則に忠実に暮らし、誰に対しても同じ心で接し、卑屈であることを何より嫌う男だった。 また、団体に所属した以上団体生活の則が第一であり、身勝手な行動を許さない毅然とした方針を持っていた。ただしこの方針は強制されるものではなく大学生くらいになれば自然と身についているはずだからオレは何も注意しねえよ、ただしそうじゃない人間であることがわかれば即座に辞めてもらう。そういうリーダーだった。 で、早速数人が出奔してしまいましたよ。青山さんら4年生も4人いなくなり、ますます人数の減ったハワイアン。いったいどうなるのか!? と危惧した矢先、WITHから3人流れてきた。あちらで問題を起こして逐電されたのではなく、当時のWITHの活動方針や状況が合わずにやってきたのでした。やっている音楽はヘビーメタル。堂々たる長髪にスリムのジーパン、革ジャン。見た目は本格的なロック野郎が、とうとうハワイアンに到着したのだった。 最初は正直、「ハワイは人が少なくて練習できそうだから来たんだろ」と彼らを冷ややかに見ていたオレだったが、すぐにその考えを改めた。高橋(秋田県能代市出身)、田口(静岡県焼津市出身)、花岡(神奈川県鎌倉市出身)の彼ら3名はきわめて道理のわかった紳士で、酒も話も楽しくすぐさまオレらとウマが合い、ハワイの重要人物となっていく。中でも高橋はオレが部長の代に会計兼事実上の副部長となり、彼とは後のハワイアンの流れを形作る行動や交わりをたびたび持ったものだった。 そのひとつが、グヤトーンのベースアンプとテスコのPAセット購入だ。ダンパのところでも述べたが、当時のオレらの機材はどうしようもないポンコツで、とりわけPA関連の充実は急務だった。オレと高橋は視察のため、お茶の水へ。そこで発見したのが、テスコの巨大スピーカーを持つPAセットだった。 当時は今と違い、エレキ音楽の機材はあくまでもギター本体とアンプが中心で、レコードプレーヤーとかサンプラーとか、ようするに箱に入った音響製品は楽器ではないと見なされていた。PAも重要な役目とはいえ、一般の楽器屋で通常販売されることは稀だった。そんな時に事実上新品の程度良品がサクッと売られていた。 何より、見栄を張れそうなあの巨大なスピーカーが気に入った。即断でしたね。お茶の水駅からいちばん近いイシバシだった。値段は忘れた。で、その足で駿河台すずらん通りにある須賀楽器に立ち寄ったら、なんとここでは当時発売されてまもないグヤトーンのベース200アンプが、これまた程度抜群で68000円! 予算がPA購入ですでに尽きていたため、高橋が実家に電話してオヤジさんにローン保証人になってもらい一件落着。こうして、ハワイの機材は一気に充実を見たのでした。ご存知の通り、当時ポンコツのそしりを受けたエルク様は結局、その後10年近くに渡ってモニター用として現役を全うされたわけで、オレの目はフシ穴だったと言えよう。 吉沢氏治世時代に、ハワイの大きな転換点となるできごとが起きた。器材庫の全面リニューアルだ。この話は次回に。
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| Vol3……ビートル舟発進
こうしてオレの大学生活は、履修登録そっちのけで始まった。青山さんと、オレと同時期にハワイ入りした小中さん、そしてマディシューズのムスタング弾き東井さんは西新井大師のなんと同じアパート(佐々木荘)に住んでいて、たちまちそこはオレの音楽教育の館となった。あらゆるブルース、ソウル、ブギ、ロックンロールを聴かされ、居合わせた人間の間をひっきりなしにギターと酒が行き交った。と言うとすごくカッコいいなあ。
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| Vol.2……ソー・ウルフルにやられた!
初回からものすごい時間が経ってしまい、みなさんこの連載のことをお忘れでしょうが、ここに不死鳥の如くよみがえるのだ。完結までサグラダ・ファミリアばりの時間がかかっても、かつてのハワイの姿を知る人間はもはやオレしかいないのだから粛々と文字に残すのみである。 |
| Vol.1……新歓おとこ舟 1983年春
高校時代、オレは演劇部に所属していたんだが、中学からの仲間でオレに音楽のカッコよさを教えてくれたT森がついにテレキャスターを買い、バンドやらねぇかと誘ってきた。そんでもってお決まりの学園祭デビュー。オレはベースとコーラスで、やったのはギンギンの初期ストーンズだった。 |
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