長期連載企画 獨協大学軽音楽部ハワイ部屋--The Fabulous Hawaiians--


以下に散らす雑文は、わたくし金子ことBluekimがかつて見聞きしたことを極私的に記したものであります。てめぇでは大して時間など経っていない、つい昨日の話だなどと思っていたのですが、どうやら馬齢を重ねてしまったようで、随所で記憶が欠落しております。矛盾が多々あるかと思いますがご容赦ください。また、あくまで私的な見聞録ゆえ、登場人物の描写や状況の説明に主観・脚色が大幅介入していることもあらかじめご了承ください。


登場人物(赤文字)上にポインタを置くとポップヒントが表示されます。
カッコ内は学籍番号の上ふた桁と出身・居住地。名前に“氏”がつく人物はオレより年上あるいは学籍番号が上の方です。

Index

Vol.1……新歓おとこ舟 1983年春


Vol.2……ソー・ウルフルにやられた!


Vol.3……ビートル舟発進


Vol.4……無題


Vol.5……近代ハワイアンの基礎かたまる

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Vol5……近代ハワイアンの基礎かたまる

お待たせしました。誰も待っていない。ハワイの歴史第5回です。どんどん極私的になってきましたがお許しください。今回はダラダラと長いので、途中で小見出しをつけてみました。よろしくお願いします。

♪専用機材庫がやってきた!

 みなさんはハワイの機材庫は3棟の3階であることを当然として育ったかと思います。しかし、オレの若僧時代は違ったのだ。3棟2階で、軽音ロックと機材庫を共用していたのだった。
  ごぞんじの通り軽音楽部は当時から4つのセクションに分かれていて、これはオレの推測だが、建学の昔ジャズとフォークソングは教養あふれる正しい音楽として優遇されてたんだと思う。で、ジャズのスインギングキャッツは3棟2階に単独の機材庫を与えられ、フォークのマイスタージンガーズは部室棟の軽音楽部部室を占有することが許されていた。いっぽう、ロックとハワイアンはあまり風紀的によろしくないものとされたか、あるいは各方面への根回しが足りなかったのか、ふたつでひとつの機材庫という状況に甘んじていた(余談ですが、ハワイアンの正式名称って知っています? 軽音楽部ハワイアンセクション・マウナ・ケアつうのよ。ちなみにロックはロックセクション・レイラ。時代を感じさせる名前ですな)。
  こういった機材庫や部室にかんする不平等は当時から一部で疑義を呈する人間がいて、軽音楽部に限らず、モダンジャズとマンドリンの連中が機材庫と部室の両方を持っていることに不満の声がしばしば聞かれた。モダンジャズと同じ愛好会の立場ながら機材庫を持たせてもらえず、やむなく近所にアパートを借りて機材を置いていたWITHなどはその筆頭だった。
  人の誠を重んずる吉沢部長がこの状況を看過できるはずがない。やおら立ち上がって当局と交渉し、渋るマンドリン部をなかば恫喝して、彼らがポンコツ楽器置き場として占有していた3棟3階いちばん端の部屋の明け渡しに同意させた。正義感あふれる吉沢部長ではあったが、基本的にはテメエの身が可愛いのであって、他の不平等にかんしては知らん顔をきめこみ、ハワイだけがこの件で得をしたのだがそのことは言わないでおこう。
  オレらは待望のマイホームを手に入れた。マンドリン側は明け渡しにあたって、中に入っている機材の処遇は勝手にしてかまわないとリッチにも言ってきたので、オレらは4号線の脇道にあったクズ鉄屋にティンパニやらシロホンやらを持っていって軍資金を得、盛大に呑んでしまいました。こうして、当時の3棟3階は左ハワイ、真ん中モダンジャズ、右が四つ葉とNFUと、もう消滅したラテン音楽サークル・アバンダという構成になった。右が3サークル共用というきわめて不平等な状況はいかがなものではあったが。
  ところで、この一連の不平等を指摘する声はオレが部長になった85年にいっそう大きくなり、つうかハワイが大声で叫び、ちょっとした改革が行なわれたんですが、その話はいずれ。
  新調なった機材庫はひとまずがらんどうの空間に機材をぜいたくにも平積みし、マイホームならではのやりたい放題を味わったオレらだった。みんなが知っている棚つきの機材庫は、87年、ヨモが部長になった年に全員総出で普請して完成したものです。自家製キャスターの裏に、「87年 金子謹製 命名マリエラ号」なんて書いてあったのを覚えている人もいると思うけど、アレです。工具箱に「高級くぎ 四方祐二」なんてくぎ入れもあったな。

♪またしても男ばかりが加入!

 さて、84年のクラブの状況を思い出そう。幸いなことに、新入部員が入ってきてくれた。やはり全員♂だったけどね。須藤(栃木県黒磯市(現西那須野市)出身)、野田(東京都立川市出身)、三村(福井県朝日町出身)、だ。この代はのちに山本(愛知県豊橋市出身)、佐原(埼玉県岩槻市出身)、秋山(東京都青梅市出身)、パンクス山田(埼玉県岩槻市出身)が加わり活況を呈すことになる。在校生は吉沢部長、亀井副部長(東京都練馬区出身)、加嶋会計、上野、小金、以上が3年生。2年がオレ、小中、高橋、花岡、田口、大塚、吉村、だったかな。実は藤生(群馬県館林市出身)、平田(和歌山県新宮市出身)の2名の女子もいたんだが、彼女らはなんというか、女性にありがちな優柔不断さがあり、活動にそれほど熱心ではなかった。他のクラブに秋波を送りつつハワイでも練習しちゃえ、みたいなね。
  新部員の中でも音楽的にオレが注目したのは須藤と野田だった。須藤はビートブラザースの演奏を聴いて入ってきたビートルズきちがい。野田は元米軍基地の町の、それも反米闘争がいちばん激しかった砂川地区の出身だけあってタイヘンやぶにらみな音楽志向で、メジャーなビートルズは(ホントは好きなんだけど)シカトしてストーンズや日本のロックを愛聴していた。のちにストリートスライダースがデビューした時、「なんて野田みたいな連中だろう」と思ったような、まあ、あんな感じのキャラクターです。この野田の存在が、80年代後期以降のストーンドなハワイの流れに大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありませんね。
  吉沢イズムが徹底していたこともあり、新部員たちはおおむね節度をもって部の活動をこなしていた。幸いなことに、団体生活が苦手なヤツもおらず、ハワイアンの男くささはいよいよ充満の一途をたどっていったのであります。

♪永遠の愛機を入手せり

 自分にかんして言うと、この年、オレは生涯つきあうことになるギターを手に入れた。
1966年式のフェンダー・ジャズマスターだ。
ビートブラザースでビートルズの初期コピーをやっていたものの、もちろんビートルズは死ぬほど好きなんだが、もっとやりたかったのはドクター・フィールグッドだったり、初期のワイルドなエルビス・コステロだったり、ネオ・モッズやスカだったりしたんですよワタシは。グレッチやリッケンバッカーといった“ビートリィ”な楽器ではイメージが固定されすぎ、上記のようなビート音楽全般を演る際に妨げになる。そう考えた(のではなくそれらが予算的に無理なだけだった)オレは、憧れのコステロやブリンズレイ・シュワルツ(どマイナーか)やヤードバーズのクリス・ドレア(ますますマイナー)が持っていたジャズマスターを渋谷のクロサワ楽器で発見! 即断したのだった。
  ちなみにジャズマスターは1959年、当時のフェンダーの最高峰として誕生。名のとおり新興のフェンダーが歴史あるハコモノ・ジャズギターの分野に板っ切れソリッドギターで殴り込みをかけた意欲作だったんだが保守的なそちら方面ではサッパリ売れず、折りからのサーフィン/エレキ・インスト・ブームに乗っかってベンチャーズ系で大ヒットしました。しかし60年代中盤以降、ジミ・ヘンドリクスの登場でストラトキャスターの人気が高まり、ホワイト・ブルースの隆盛でギブソン人気も盛り上がると、もともと歪み系サウンドが出にくく、サスティンにも乏しいジャズマスターの人気は急降下。クソ・フェンダーの称号を得、過去のお笑い遺物としてなかば放置された状況だったのでした。だからセイガクのオレでも、がんばれば買える値段だったんだ。
  現在ジャズマスターは、カート・コバーンが愛用したこともあって値段が急騰。オレの持っている年代&コンディションだと50万円を突破しているようだ。隔世の感ありだな。
「おっ、ジャズマスいいね」なんて言われたことは1度もなく、「それフェンダーなの?」という嘲笑が常についてまわったものだった。春合宿に持っていった時、さすがにハワイの猛者はジャズマスターの存在を知っていてそれなりの敬意を表してくれたが、それでも、「わははこんなフェンダー買いやがった」と格好のネタにされたものだった。
  でもホントいいギターなんですよ。購入後何度も自家改造を施してメタメタにしてしまったが、17年前に一念発起してフルリペア。ボディ塗り替えてフレット打ち直して指板を修正してナットを交換した。なぜ修理がネック関連に集中しているかというと、自分のギターにかんする考えとして、「弦楽器の善し悪しはネックで決まる」つうのがあるから。ネックが機械としてちゃんとしていて握りが自分にフィットすれば、それはもう勝ったも同然なんですよ。オレのジャズマスターのネックはまさにそれだった。左手に吸いついてきた。恋をしてしまった。
  若い時分に、ロックンロールの黎明期の息吹を存分に吸い込んだエレキ・ギターに出会えたことは、オレの生涯の財産になった。今でも己のエレキ・ライフにおいて、コイツはメートル原器であり続けている。
  などとカッコつけつつ、次回へ。

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Vol4……無題

 で、ダンスパーティの話でしたね。実はもう当時の記憶がおぼろげになっていて、具体的にどうだったか忘れてしまった。ただ覚えているのは、やっぱりハワイは異物で、機材も明らかに他の連中から見劣りしていたこと。演奏じたいに問題はなかった。というか、クラブという名のもとに他人同士が時間をわかちあって、人前で音楽を演奏するということの意味を理解し、実行していたと思う。この理解と実行は、のちにハワイアンが音楽サークルらしからぬ益荒男な活動原則を貫くミナモトとなっていくわけですわ。
  さて、夏休みだ。当時はわりと頭と要領ののよかったオレは前期試験にもさして苦労することなく、欣快な気分でハワイアン合宿に臨むことができた。
  合宿地はおなじみ河口湖だが、今と異なり湖のずっと西のはずれ、西湖に近い長浜地区にある“丸木舟”という民宿が宿だった。加嶋さんが神奈川・相模原から山中湖へ抜ける国道413号、通称道志みちをサイクリング中に立ち寄って酒を呑み、主人と意気投合して使わせてもらえることになった宿である。 まあ実にボロいところで、練習場はスタジオなんてかっこいいものではないどころか、そんなスペースなどどこにもなかった! じゃあどうやって練習していたかというと、宿からクルマで5分ほど行った山の中腹にあるツブれた縫製工場に機材を持ち込んで勝手に使っていた。後に聞いた話だが、丸木舟の主人は地元の有力スジ者ゆえ誰も口出しできず、そのような暴挙が可能になったとのこと。
  諸般の事情で合宿に参加した1年生はおれだけ。他に数人いたんだけど、どういうわけかオレだけ。ま、その時点でオレはすでにそれなりの地歩を部内で固めていて、他の1年生からアタマふたつくらい抜けた存在になっていたので、正直他の連中などどうでもよかったりした。ところが、合宿が始まってみるとオレは自分がやっぱり最下層の1年生であることを思い知ることになる。
  バンドの練習以外はぜんぶ基礎練習みたいなことを強制的にやらされましたよ。あとは諸先輩の音楽論を延々と拝聴。あとは各種雑用。でも、酒はたっぷり呑ませてもらったし、理不尽で不当な扱いを受けるわけでもなくこちらの人格は尊重されていたから、ちっとも苦にはならなかった。宿から件の練習場までは、たいがい体内ガソリン補給をかました加嶋さんの綱渡り運転。ちなみに当時は機材をレンタカーのトラックで運んでいったんそれを草加へ戻し、後発の誰かしらがクルマで運転手をピックアップしてくるのが基本パターンだった。
  こうして日々ハワイになっていったオレは、秋、はじめての学園祭を迎えることになった。教室は3棟2階の小教室。ここまでお読みになった諸兄は、どうやらオレがハワイアンの帝王学(実にショボい国の王だが)を叩きこまれつつある存在であることにお気づきでしょうが、学園祭でもその立場は変わらなかった。機材セキュリティ確保のため教室に宿泊する重要な任務を、いきなり命じられました。2年生で、現在は世界的なフォントデザイナーとなったドラムの小金さんと一緒だった。
  演奏が終わって泊まらないヤツらは学外へ退去。8時の最初の点呼が終わって正門へ出ると彼らが待っていて、次の点呼までたらふくメシと酒をおごってくれた。さらに酒とメシを買い込んで教室に戻り、しみじみと音楽話などしつつ、他のクラブからメシと酒をもらったりしつつ、段ボールの上で寝た。なんか、大学生になった実感がしみじみわいてまいりましたねえ。
  ……実は学祭の具体的な中身は、これまた失念してしまいました。あ、中庭ステージには出ました。そのために小中さんが友達からビンテージのヘフナー・バイオリンベースを借りてきて、服は渋谷109裏手の貧民窟にあったさかえやという古着屋で1500円の60年代スーツを調達。それをダイロンなる染料でむりやり染め、チンチクリンに縮んだ状態で臨んだ。靴は、オレはモッズだから当然クラークスのデザートブーツですな。
  学祭の打ち上げで、当時部長だった中川さんが後任を指名。生粋の竹の塚人にして音楽人間とは思えない強面と体躯を持つ(しいて言うならアーロン・ネヴィルを東洋人にした感じ)吉沢さんが新部長となった。翌日の片づけから、さっそく吉沢さんが指揮を執ることになる。このシステムは今も続いているかな?
  吉沢新部長は、実は音楽にそれほど詳しいわけではなくギャグのセンスにも乏しく、正直、なんでこの人がハワイアンにいるんだろ? てな感じの人だった。ただし、どこかしか人を惹きつける(萎縮させるとも言う)侠気があり、自ら決めた原則に忠実に暮らし、誰に対しても同じ心で接し、卑屈であることを何より嫌う男だった。
  また、団体に所属した以上団体生活の則が第一であり、身勝手な行動を許さない毅然とした方針を持っていた。ただしこの方針は強制されるものではなく大学生くらいになれば自然と身についているはずだからオレは何も注意しねえよ、ただしそうじゃない人間であることがわかれば即座に辞めてもらう。そういうリーダーだった。
  で、早速数人が出奔してしまいましたよ。青山さんら4年生も4人いなくなり、ますます人数の減ったハワイアン。いったいどうなるのか!? と危惧した矢先、WITHから3人流れてきた。あちらで問題を起こして逐電されたのではなく、当時のWITHの活動方針や状況が合わずにやってきたのでした。やっている音楽はヘビーメタル。堂々たる長髪にスリムのジーパン、革ジャン。見た目は本格的なロック野郎が、とうとうハワイアンに到着したのだった。
  最初は正直、「ハワイは人が少なくて練習できそうだから来たんだろ」と彼らを冷ややかに見ていたオレだったが、すぐにその考えを改めた。高橋(秋田県能代市出身)、田口(静岡県焼津市出身)、花岡(神奈川県鎌倉市出身)の彼ら3名はきわめて道理のわかった紳士で、酒も話も楽しくすぐさまオレらとウマが合い、ハワイの重要人物となっていく。中でも高橋はオレが部長の代に会計兼事実上の副部長となり、彼とは後のハワイアンの流れを形作る行動や交わりをたびたび持ったものだった。
  そのひとつが、グヤトーンのベースアンプとテスコのPAセット購入だ。ダンパのところでも述べたが、当時のオレらの機材はどうしようもないポンコツで、とりわけPA関連の充実は急務だった。オレと高橋は視察のため、お茶の水へ。そこで発見したのが、テスコの巨大スピーカーを持つPAセットだった。 当時は今と違い、エレキ音楽の機材はあくまでもギター本体とアンプが中心で、レコードプレーヤーとかサンプラーとか、ようするに箱に入った音響製品は楽器ではないと見なされていた。PAも重要な役目とはいえ、一般の楽器屋で通常販売されることは稀だった。そんな時に事実上新品の程度良品がサクッと売られていた。
  何より、見栄を張れそうなあの巨大なスピーカーが気に入った。即断でしたね。お茶の水駅からいちばん近いイシバシだった。値段は忘れた。で、その足で駿河台すずらん通りにある須賀楽器に立ち寄ったら、なんとここでは当時発売されてまもないグヤトーンのベース200アンプが、これまた程度抜群で68000円! 予算がPA購入ですでに尽きていたため、高橋が実家に電話してオヤジさんにローン保証人になってもらい一件落着。こうして、ハワイの機材は一気に充実を見たのでした。ご存知の通り、当時ポンコツのそしりを受けたエルク様は結局、その後10年近くに渡ってモニター用として現役を全うされたわけで、オレの目はフシ穴だったと言えよう。
  吉沢氏治世時代に、ハワイの大きな転換点となるできごとが起きた。器材庫の全面リニューアルだ。この話は次回に。


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Vol3……ビートル舟発進

 こうしてオレの大学生活は、履修登録そっちのけで始まった。青山さんと、オレと同時期にハワイ入りした小中さん、そしてマディシューズのムスタング弾き東井さんは西新井大師のなんと同じアパート(佐々木荘)に住んでいて、たちまちそこはオレの音楽教育の館となった。あらゆるブルース、ソウル、ブギ、ロックンロールを聴かされ、居合わせた人間の間をひっきりなしにギターと酒が行き交った。と言うとすごくカッコいいなあ。
  その頃オレはベースをそもそも弾くということで、4年生ののバンドになかば強制的に入れさせられ、あまり興味の沸かない音楽をやっていた。いっぽう小中さんはベースの加嶋さん、ドラムの上野さんとトリオでビートルズをやるという通好みなバンドをこさえていて、ある時オレはその練習に居合わせたんだな。
「やっぱトリオじゃ限界あるな」、3人がいっせいにオレのほうを向いた。
  実は、この時を待っていたのだった。こうして、ハワイアン初の本格ビートルバンド、ビートブラザースができ上がった。ちなみに当時のオレは今より15キロもやせていて50キロ台だったこともあり、自分で言うのもナンだが60年代ぽいスリムな格好が似合っていた。親戚のお下がりでもらった洋服群がたまたま60年代のアイビー系だったし、アメ横にそれっぽい服を扱う古着屋も発見し、いっぱしのモッズ気取りだったのよ。髪形はお恥ずかしい話ですが、ブライアン・ジョーンズをちと意識していたしな。
  つうわけで、バンドは基本的にビートルズをやるんだが、オリジナルに忠実というより、ビートルズがカバーした唄を、むかし懐かしのエレキ中心の4ピース・アンサンブルで楽しく聴かせるアプローチを採った。加嶋さんがキャロルきちがい、上野さんがジャムとドクター・フィールグッドきちがい、オレがそれら+フー、パブロックのガイキチだったこともビートルズ完コピを志向しなかった理由だ。
  80年代前半の大学音楽サークル業界は、当時の流行に合わせてフュージョンやポップスが中心。そんな中にあってビートブラザースは背広着て「♪チャララチャララチャララチャララララララララン(チャックベリーのイントロね)」だったから異物丸出しで、しかもハワイは当時マイナー中のマイナー男所帯だったから、ほとんど誰にも相手にされませんでしたよ!
  そんなおり、先輩が6月に行なわれる創造祭なるイベントの話をしてくれた。なんでも最終日には学食でダンスパーティがあるらしく、その出場枠はむかしからハワイアンにひとつ割り当てられているとのこと。さてこれにどのバンドを出すべえという話になった。この時点で、人前で10曲以上やれるレパートリーを持つのはビートブラザースのみであり、必然的にビーブラに出番が回ってきたのでした。持ち時間は30分で、他のサークルのバンドは1曲が長いが、われわれはいってみればラモーンズみたいなもんだから、たっぷり10曲以上できる。これは異彩を放つこと間違いなしで、オレは胸躍った。
「人間、最後はロックンロールが勝つ」
  ジマンですいませんが、その後86年の新歓まで、オレはハワイが人前で演奏するすべての機会でフロントマンを張ったのでした。
  そんなわけで、マイナーな団体ではありますがその中で将来ちんげ程度の選ばれた男になることがいきなりかつホボ決定してしまったオレであった。当時、いずれオレは部長になってこの団体のかじ取りをすんだろうという、壮大かつちんげ程度の予感を覚えたことを覚えています。
  次回からはこういう下らぬバカ的自叙伝はやめて、もっとかいつまんだダイジェストでお届けしましょう。学祭での教室宿泊とか、現在の3階機材庫をマンドリン部からブン取った話とか、みなさんもおなじみのテスコPAセットをゲットした経緯とか、練習教室にオバケがいた話とか、学内の音楽利権をめぐって市民運動家みたく当局にかみついてソレ色ギンギンの軽音新聞なるものを作ってみたとか、近代ハワイアン最初の黒船が来航した時期とか。あ、独協音楽祭の復活にかんするネタもあった。全然かいつまんでねえじゃねえか。
  ま、とにかく、まだしばらく続くんで見捨てないでください。


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Vol.2……ソー・ウルフルにやられた!

初回からものすごい時間が経ってしまい、みなさんこの連載のことをお忘れでしょうが、ここに不死鳥の如くよみがえるのだ。完結までサグラダ・ファミリアばりの時間がかかっても、かつてのハワイの姿を知る人間はもはやオレしかいないのだから粛々と文字に残すのみである。
  というわけで入学早々にハワイアンなる団体への所属を決めてしまったオレは、意気揚々と黒いテレキャスターを携えて翌日、学校へ向かった。当時から老け顔なうえにギターを持っているとあっては上級生もオレが新入生には見えなかったらしく、新歓2日めにもかかわらず、オレに声をかけてくるスタジャン連中は皆無だった。大人気取りでもう、♪ス〜パットデスモ〜キンブギだったし。
  3棟2階に行くと、カンニング落第4年生の青山さんが近づいてきて、オレのギターを貸してくれと言う。自分のテレキャスターの弦が全部切れたのだそうだ。
「全部切れた?」、ふつうは1本でも切れたら演奏後に張り替えるはずだから、よしんば次々切ったとしても1本もなくなるなどありえないだろう。どういう弾きかたしてんのよこの人といぶかしく思いつつもオレはギターを渡す。すると青山さんはニヤニヤしながら、なんと別の部屋へ消えていった。
  オレのギターが誘拐された! 追いかけたかったが、諸先輩方はその光景にニヤニヤしているだけで、オレに気にしなくていいからと言わんばかりだ。どころか、「腹減っただろう」とオレを学食に拉致し、犯人との引き離しさえ試みるのだった。
  渋々カツカレーを食っていると青山さんがオレのギターを裸で! 持ってやってきた。どこかすまなさそうな顔をしている。
「わりぃ。全部切っちゃった」
  オレのギターもまた、彼の謎のプレイの犠牲になってしまった。しっかし立場上怒れないよなあ。
「明日の最終日にいいモノ見せてやるからそれでチャラにしてよ」
  そのいいモノが、オレのハワイ入りの気持ちをいっそう強固なものにしてしまうのだから、つくづくこの人は罪な男でしたよ!
  翌日。公約通り見せてくれたいいモノは、昨日彼が消えていった部屋にあった。そこはニューフォークユニオンが新歓に使っていた部屋で(具体的な場所は失念)、そこにはハワイアン以上に男くさい連中が何人もいて、これはハワイにはない光景だったが気のきいた美人も数人いた。新入生もいれば在校生もいる感じだが、どちらかというと在校生っぽいヤツのほうが多い。
  教室があらかた人で埋まったのを見計らって、青山さんが登場してきた。
「みなさんこんにちは! 新入生諸君ようこそ! 僕たちはマディシューズといいます。カッ、カッ、カッ、カッ(カウントの音)」
  いきなりブルースブラザースを演奏しやがった! 続いてジョニー・ギター・ワトソン、エルモア・ジェイムズ、オーティス・レディング! 手慣れた感じ、というか余裕たっぷりで自分のモノになっている演奏で気負いがない。聴いている連中もいつも通り楽しんでいる風で、新歓の物欲しさは皆無であった。
  青山さんはとにかく激しくギターを弾き、唄い、ブルースハープを唇に滑らせていた。右手はフィンガーピッキング。それもマジック・サムよろしく親指のダウンストローク中心だ。なるほどこれは切れるわな。ギターはひとりがビンテージのストラトキャスターで、手がものすごく大きく、Fでロックンロールのリフを軽々押さえ、7thの音まで小指が届いていた。もうひとりのギターはこれまたビンテージのムスタング。ベースはフェンダー・プレシジョンだった。ラッパ隊もいた。つまり、音楽も楽器もぜんぶオレのストライクゾーンどんぴしゃだったんですよ。
  ところが演奏が終わると、メンバーは全員散り散りになってどこかへ行ってしまった。青山さんに聞くと、このバンドはいろんなクラブからの寄せ集めで、自分のところに合うメンツがいないあるいは毛色が違い過ぎて白眼視されている音楽をやりたいがために集まっているのだそうだ。NFUの部員なのはデカ手の人・大牟田さんだけで、あとはハワイ、四つ葉、ロック、ジャズ研、キャッツの人間だった。南君が入ったころのNFUと状況が似ているのがおもしろいね。
  ハワイに関連したところでこんなすごいことをやっているヤツらがいる。オレもそのうちできるようになるだろう。
  よし、ハワイで生活しよう。
  その夜。いきなりオレは呑みに連れ出された。それが、オレのしまとのつきあいの始まりだったんだが、しまに関する話はあまりにたくさんありすぎて、別の機会にジマンすることにします。

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Vol.1……新歓おとこ舟 1983年春

高校時代、オレは演劇部に所属していたんだが、中学からの仲間でオレに音楽のカッコよさを教えてくれたT森がついにテレキャスターを買い、バンドやらねぇかと誘ってきた。そんでもってお決まりの学園祭デビュー。オレはベースとコーラスで、やったのはギンギンの初期ストーンズだった。
 でも当時やりたかったのはギターだった。で、オレは大学入学と同時に夢の実現に向けて動いた。調達したギターは黒いテレキャスター。ドクター・フィールグッドのウィルコ・ジョンソンになりたかったからだ。当時すでに私のバイブルとなっていた、ブルース・ブラザースの影響も当然。スティーブ・クロッパーだね。実を言うとマーク・ボランにもなりたかったんだが、レスポールの値札はオレのグラマラス・ロック化を拒んだというわけ。
 そんな青二才は新歓時からいろんな音楽クラブの演奏を見てまわったわけだが、どれも気にくわない。それは、当時の学内の雰囲気つうか、時代の気分に理由があった。80年代初頭の私立ナンパ系大学ってヤツは、70年代後半に巻き起こった軽め系カルチャーの巣窟で、ポパイ、アメリカ西海岸、サーフィン、ハマトラ、カフェバー、テニスサークル、スタジャン、レイヤーカットなんて記号に彩られていた。となれば、聴く音楽やる音楽はシティミュージックだのフュージョン(当時まだクロスオーバーという呼称も残っていた)だのウェストコーストロックだの、ようするにああいうヤツですよ。
「おいおいカッペばっかかよ、ロックやるヤツぁいねえのかよ」、1棟前、D●Gのデモ演でオクターブ弾きしかしないチョッパーベースに辟易しつつ、オレはロック・アンド・ロール・ピープル不在を嘆いておった。今にして思えば噴飯ものの偏狭なセクショナリズムだけど、まあ18歳だしな当時のオレ。

 もう帰るべと石のベンチから立ち上がった時、少し先にフェンダーギターのネックが見えた。メイプルネックのエスクワイアだ。ちなみにこのころはフェンダー・ジャパンが立ち上がって間もない時期。エスクワイアはテレキャスターの関連モデルだが、当時のフェンジャパには存在しなかった。すなわち、オレが見たヤツはアメリカ製のビンテージ・フェンダー、まさに“真のエレキ様”だったのだ。当時のアマチュアにとってフェンダーやギブソンというブランドネームの迫力・神格たるや、ビギナーの坊ちゃん嬢ちゃんでも買える現在とは比べ物にならず、本上まなみが使ったカレーのスプーンを(洗わずに)入手することより困難と言えた。
 そんな雲上物が眼前に降臨なさった。アイ・ソー・ザ・ライトってヤツだ。しかしオレが生ネックを目撃したっつうことは、そんな神の楽器を裸で持ち歩く大馬鹿者、もとい快男児がいたわけです。トートバッグにボディだけ入れて、ネックはフルチン屹立状態。あまりの益荒男ぶりに、オレは何の躊躇もなく話しかけた。
「そ、それ、すげぇギターじゃないスか」
 振り向いたその男がいきなりすごい老け顔だったのを、今でも昨日のことのように思い出す。伊藤銀次をいっそう大げさにしたような顔で、そのうえハイライトを吸っていてとってもアダルトな気配。態度もなんだか不遜だった。
「あぁ? これね。52年のエスクワイア。フロントにPAF入れてあんの。改造されまくってたから安かったぜ」
 当時から機材好き、というと聞こえはいいが、ようするになんでもモノから入りたがるオレは、「ち、ちょっと触らせて下さい」と図々しく接近を図る。すると男は言った。
「オレこのクラブの人間じゃないよ。テレキャス好きなんでしょ?オレK中っていうんだ。よろしく。今からさぁ、友達が入っているクラブに顔出すんだけど一緒に行く? 確か3棟って言っていたなぁ」
 ロックがどうたらとほざいていた青二才はいきなり金魚のフンと化して年増男のあとを追い、3棟2階(当時)の小教室へ吸い込まれていった。

 ドアを開けたとたん、目の前にプレジションベースを太鼓腹に埋め込んで異様な震動つうか発作を繰り返す物体が飛び込んできた。それが人間と気づくまで何秒かかったろうか。音はスピーカーから出ているはずなんだが、その男自らが震動しているように思えた。
 発生音はあくまで下品で荒々しく、石のつぶてというより岩の塊、いやいや恐竜のクソのよう。しかしそのクソはしっかりバネのある8分音符の間隔をもって放出され、クソを拭くバチを持った小柄なドラマーは、その放出を快適にサポートするタイトな打撃音をあたりに響かせている。
 息を呑んだ。眼を見張った。ややあって、これまた男くさいのが数人入ってきて演奏チェンジ。さっきの年増男K中氏がそれに混じり、エスクワイアをグヤトーンのチューブアンプに突っ込む。すると唄担当が、何やら口とマイクを両手で覆うではないか。ブルースハープだ! オレの心は決定された。
 ついに演奏が終了。ハープの人物がオレに話しかける。
「新入生? こういう音楽好きなの?」
「……(度肝を抜かれている)」
「もっといろんなとこ聴いたほうがいいよ、ここ男ばっかだし」
「オレのエスクワイアが気に入ったみたいだから連れてきたんだよ、好きなジャンルだいたい見当つくジャン」、とK中氏。さらに、「来たよ来たよまた数奇者が、バカが来たよ。しかも男」、ベースの物体が話に混じってきた。
 何かよくわからんが、オレは歓迎されこそすれ、敬遠されている風ではなかった。ハープの人物はA山と名乗り、ブルースが大好きであると告げた。ベースの物体はK嶋とのことで、「ねえ、ビートルズとキャロル好き?」といきなり好みを押しつけてきた。そしてオレはさっそく学食に拉致され、尋問を受けたわけです。
「どんな音楽が好きなの(A山、K嶋、K中)」
「ドクター・フィールグッドとかストーンズとかブルース・ブラザースとか、ブルース寄りの黒人音楽系です。日本のヤツも夕焼け楽団とかミカバンドとかサンハウスとか……。ギターやりたいッス」
「おおお、いたよこんな若いのがまだ(全員どよめく)」
 教室では黙っていた小柄なほうのドラマーが口を開いた。彼はU野と名乗った。
「ジャムは聴かないの? フーは? キンクスは? ラモーンズは? ジョージ・サラグッドって知ってる?」
「知ってます。チャック・ベリーは当然大好きです」とオレ。するとあとから演奏したほうのドラマーK金氏が問いかけてきた。
「じゃあスライドギターなんかも好きでしょ。リードギターよりリズムギターのほうが好き、なんてことない?」「リードは弾けねえッス」
「おおお(またどよめき」
 ややあって、学食にひどく男くさいのがやってきて、オレに一瞥をくれるとこう言った。
「なんか純真な新入生をダマシテんじゃないの」、最初にいた人々とは微妙な温度差というか、ややオレに冷たいような対応。見た目が非常に近寄りがたいこともあって、オレは戸惑いを隠せなかった。
いったいこの男たちは何者なのか。明らかに他の連中と気配が違いますよ。

 男子校育ちだったオレは、正直ドッキョーでおねいちゃん達と楽しくやりたい願望も持っていて、ロックうんたらなるカッチョいい能書きはそれが叶うのなら引っ込めるにやぶさかでなかった。ロックとはそういう生き方を示す指標でもある。
 この男たちに囲まれてばら色のキャンパスライフは望めそうにない。コイツらの発散する体臭はケダモノのそれで、つい数ヶ月前までさんざん嗅いできたからよ〜くわかります。先ほどの入部決意が揺らぎはじめた頃、ゴツイ人物はオレにこう言った。
「興味あんなら明日も教室に来な。オレY沢。2年生だけど、まぁ部長みたいなことやってっから」
 帰りの東武線でいくらか逡巡したのち、家に帰ったオレは新品の弦の袋を開けた。

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